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- 断捨離のススメ - 真のミニマリストになりたい
私は以前、ミニマリストとは真逆にやたらとモノを溜めこむ人だった(一応、過去形)わけなのですが、ミニマリストという言葉を知る前に、知ったのが「断捨離」でした。
断捨離をする人は『ダンシャリアン』と呼ばれていますが、断捨離はヨガ哲学にもつながっており、いろいろと学んでいくと、ただモノを減らすだけというより、自分軸を見つめ直すきっかけとなったりして随分と勉強になります。
自己を見つめる方法としての「断捨離」
やましたひでこさんが提唱したメソッドです。
精神論をつきつめたいなら、断捨離なのでしょうか。
『基本的にはヨーガの行法、「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方、生き方、処世術である。単なる「片づけ」や「整理整頓」とは一線を引くという。
日本では伝統的に「もったいない」という観念・考え方があるが(これはこれでひとつの考え方・価値観ではあるが) この考え方が行き過ぎると物を捨てることができなくなり、やがてすでに使わなくなったモノ・将来も使うはずがないモノなどが家・部屋の中に次第に増えてゆき、やがては自分が快適に居るための空間までが圧迫され、狭くなり、また人は膨大なモノを扱うのに日々 膨大な時間や気力を奪われるようになってしまい、知らず知らずのうちに大きな重荷となっていて心身の健康を害するほどになってしまう・・・・(ウィキペディアより)
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これには、激しく納得いたしました。
「このモノは使える」→「取っておく」ではなく、「私が使う」→「必要」という考え方。(やましたひでこ公式サイトより)
最小でも最大でもなく「最適」な量と関係で~ダンシャリアンがミニマリストと違う理由 (やましたひでこ)
最小
最大
最適
先日、私のもとに、あるミニマリストとの対談企画が持ち込まれた。どうも、断捨離はミニマリズムと混同されているようだ。
けれど、ミニマリズムを最小限主義とするならば、断捨離はそれとは明らかに違う。
なぜなら、断捨離は「もうモノは必要ない」と考えてはいないし、「家に何もない」状態をつくろうとはしていないのだから。
モノを最小限に絞り込むミニマリスト。
そこに垣間見えるは、モノをひたすら「排除」していこうとする姿。
けれど、ダンシャリアン<断捨離に励む人>は、モノを捨ててはいるけれど、それは過剰となって対応対処できなくなったモノに始末をつけているだけ。決して、ミニマムなゾーンまで手は染めてはいないですね。
つまり、断捨離とは「過剰」に焦点をあて、その過剰を元の最適レベルにまで戻そうとしているのであって、モノそのものを悪者に仕立てているわけではないですね。
それどころか、モノとの関係を問い直し、モノとの良好な関係を築こうとしている。言い換えるならば、モノとは、どんなに質の高いものでも、それが有り余るものほどあったら厄介物となり、私たちを損なう存在に成り果てる。
要は、断捨離はモノの量、過剰と不足のバランスをつねに意識して図ろうしているのです。
ところで、私はミニマリストと聞いて、あるバックパッカーのご夫婦の話を思い出した。
このご夫婦、背中にリュックひとつを背負って、2年間、世界中を旅していたという。
その間、彼らの所有物といえば、ほんの僅か。これぞ究極のミニマリストさん。
ところが、旅を終え、住まいを構えたら、たちまちにして家中モノで溢れ返ってしまったのだとか。
そう、彼らは2年の間、モノはリュックひとつしか持てないという制限の中にいた。その制限が外れたとたん、手当たり次第にモノを取り込み始めてしまった。
かつてはリュックたった一つ分の荷物で充分やっていけていたはずの自分たちが、実はこんなにもモノを持ちたがっていたとは、と驚きながら。
私たちがモノを手にしたい、持っていたいと思うのは自然なこと。そうやって私たちは暮らし、生きている。
だからそれに過度の制限が課されたら、やはり苦しい。そしてその制限が外れると、かえってその反動が大きく出てしまうもの。
一方、ミニマリストとは真逆に、やたらとモノを溜めこむ人たちがいる。そんな人たちを私は「タメコミアン」と呼んでいるのだけれど。
必要のないモノでも手にし、必要のなくなったモノでも手元に留め置き、必要のないモノたちがひしめきあう中で暮らす人たち。
いやはや、世の中には、いろいろな人たちがいるものです。もちろん、私自身も別の意味で「いろいろな人」の範疇に属することには変わりないけれど。
だからこそ、ミニマリストとタメコミアン、私はこの全く対照的な存在に思いを巡らす。
モノを、主義として、退け排除していく姿。モノを、無自覚に、溜め込み堆積させていく姿。最小限までモノを減らした生活と、最大限までモノを増やしつづける生活。両極端とも言える人生の有り様。
まあ、どんな人生を選択しようとそれぞれの自由だけれど、私は、この二つの有り様に同じものを見てしまう。
それは、モノと遊び愉しむことのない姿。
それは、ゆとりの欠如。
そう、排除と放置では、モノとの関係は良好とは言えない。
そう、心の閉塞と空間の閉塞、そこに潤いがあるとは言えない。
最小限を主義として追い求めること。
最大限を無自覚に膨張させてしまうこと。
断捨離とは、過剰を手放し代謝させていく自然な営みであって、主義主張ではなく。
断捨離とは、最適を自分自身に提供していく心地のよい意図的な作業。
断捨離とは、最小限でもなく、最大限でもなく、人生のその時、その場に応じて、最適を自分にもたらしていくこと。
そして、そうするためには、そうなるためには、暮らしの様々な場面で、時に過剰に揺れることを許しながら、時に不足にあえぐことも受け入れながら、過剰と不足、そのどちらも経験していくことが必要なのですね。
どうでしょう?
最小でも最大でもなく「最適」な量と関係で ~ダンシャリアンがミニマリストと違う理由(やましたひでこ) - Yahoo!ニュースより転載
「タメコミアン」は想う
この記事からいくと、私は「タメコミアン」。
モノを、無自覚に、溜め込み堆積させていく姿・・・と、まさにその通り。
そしてさらに、やましたひでこさんは、ミニマリストもモノと遊び愉しむことのない姿。ゆとりの欠如。モノとの関係は良好とは言えない。
そう、心の閉塞と空間の閉塞、そこに潤いがあるとは言えない・・・とまでおっしゃっているわけです。
うん、これは一部のミニマリスト極限派をみて、そう言えるのかもしれませんね。減らして削って、少なくしているうちに「少なくしなければならない」という意識にフォーカスしてしまって、必要なものがわからなくなっている状態。
あまりに自分のしている方向に焦点を合わせてしまうと本来の目的を忘れ周りのものが見えなくなってしまっている・・・よくあることです。
「ミニマリスト」というと「モノ」に焦点をあてていることが多いのですが、実は必要なモノを選ぶコトによって、そこから「豊かな生活とは何か?」を考えさせてくれます。
一方、「断捨離」は「モノ」から始まって「コト」だったり「人間関係」に焦点が広がっているのがわかります。 その違いって?・・・とここまできて、私がどうでもよい小さいコトにこだわっているのがわかりました。
大切なのはシンプルで上質な生活をすること
「気持ちよく暮らす」とは決して「モノを減らす」ことだけではありあません。
「ミニマリスト」でも「断捨離」でもどちらでもよいではありませんか。
私はこちらの動画を見て「ミニマリスト」と「断捨離」は、実は、とても近い関係にあると感じました。