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- 50代からのシンプルライフ - 断捨離のススメ
あけましておめでとうございます。
昨年より断捨離、断捨離とモノばかりを捨てていましたが、今年はもう少し心の内面にも目を向けて、シンプルライフを目指していきたいと思っています。
さて、大晦日に聞いた百八つの鐘の音、人間の煩悩を削ぎ落すものとして撞くものですが、みなさんは、どんな気持ちで聞かれましたでしょうか。
今日は、お坊さんが書いている業(カルマ)と煩悩(ぼんのう)についての本から、煩悩を断捨離する方法について、私なりの考えを書きたいと思います。
仏教では、業(カルマ)とは「心の中に蓄えられたエネルギー」
私たちの生命は、この業=心に蓄えられたエネルギーを使って体を動かしたり言葉を話したりしています。
心の中で何かを考えることすらも、この業のエネルギーが使われていいます。
そして、このエネルギーは、私たちがそれを使って考えたり話したり行動するたびに、新しく次々と生まれ続けます。
例えば、素敵な音楽を聴いたら、その聞いた余韻がしばらく心の中に残り気分がよいですし、人に嫌な言葉をぶつけたら、やはりムカムカするようなネガティブな後味が残ります。
一つ一つの行為には潜在エネルギーが含まれていて、その潜在エネルギーが、心へとフィードバックされ、次から次へと連鎖する力を持っているのです。
ですので、何かをするとその行為はそれだけで終わることはなく、余波とか波紋(オーラ)というようなものになり、心にさざ波をたてていきます。
言い換えると、走っている電車が急ブレーキをかけてもすぐに止まらないように、揺り返しが起こります。
心の中に蓄えられやすい瞋恚(しんに=怒り)のエネルギー
例えば、誰かに嫉妬したり、「あの人は〜〜すべき」、「私の人生を邪魔しないでよ!」といったネガティブな煩悩エネルギーを作り出してしまうと、そこに存在するのは、他人を拒否しようという瞋恚(しんに→怒り)の業(カルマ→エネルギー)だけとなります。
つまり、煩悩って、業(心に蓄えられたエネルギー)のうち、私たち人間を悩ますいろいろな迷いや悩み、欲といった、まさに潜在意識上のネガティブエネルギーを総称するものなのではないかと思います。
「あの人は〜〜すべき」、「私の人生を邪魔しないでよ!」とまではいかなくても、「あの人の考え方は間違っている」とか、「自分には全然理解できないわ!」なんていうことも、そのエネルギーに含まれるかもしれません。
そして、この、一旦存在してしまったそのエネルギーは、そのまま消えることはなく、怖ろしいことに、その人の潜在意識にぐ〜っとこびりついて蓄えられることになります。
それ以降、いつも何かを拒否して不快感を感じる度に、その分、瞋恚(しんに=怒り)のエネルギーが増幅するようになり、他人のちょっとした言葉に傷ついたり、人の助言を素直に聞けなくなったり、イライラしやすい人になっていきます。
もちろん、人は、自分がそんな状態になっているともつゆ知らず、周囲の人や世界を批判ばかりしていたりするものです。
蘭子自身、思い返してみると、瞋恚が積もり積もって、怒ってばかりいる時代がありました→50代主婦の黒歴史シリーズ「若い頃は、嫌な女でした。」
道徳の説教師
こういった仏教の道徳観について、ふだんから「私は善や道徳には興味がないわ!」っと、思っていらっしゃる方も多いと思いますが、実は人って、潜在意識の奥底で、こっそり日々この道徳を使って暮らしています。
ただし、自分をうるわしくするためにではなく、他人にこの道徳観を押し付けるために・・・です。
私たちは知らず知らずのうちに、相手に「〜すべき』との義務を押し付けて日々生活しています(-_-;)。
そして、その義務を果たしていると思えない相手を非難するわけです・・・そうしないと、自分の気持ちが収まらないから。
「人として、この私のために〜〜をするべきであ〜るっ」といったように、相手に道徳を説教しつつ、怒りのエネルギーを増やしているのです。
実際には、脳内で不快感を作り出し、「私を大切にしなさいよ!」といった気持ちを丸出しにしているだけなのですけれども・・・。
たとえ口に出さなくても、心で思っているとしたら同じことなのです。
誰かを責めている(〜〜しなさい!、〜〜してほしい!)というときは、実は「もっと私に対して道徳的になりなさ〜い!」と言って道徳の説教師になってしまっているのです。
心当たりはありませんか?
「どの人も100%、素晴らしい存在である!」
本当は、そう思えたら、脳内でこんな説教はしなくて済むし、ましてや瞋恚(怒り)のエネルギーで「私の人生を邪魔しないでよ!」と絶叫し続けることもなくなります。
では、どうしたらそんな絶叫状態から抜け出すことができるのでしょうか。
修行や瞑想による深いワークで悟りを拓かずとも、煩悩を断捨離する方法はあります。
少なくとも、自分の当たり前と他人の当たり前が違うということにさえ気づくことができたら、この道徳の説教師から脱することができます。
そして、もし今、もっと近しい間柄でうまくいっていないことがあったとしたら、この道徳の説教を家族に対して自分がしていないか?よく考えてみることが必要です。
他人だけでなく家族の間でこそ「自分の当たり前と人の当たり前は違うということ」を理解すること。
1年の初め、ぜひ、あなたの心の中を洗い出してみてくださいね。