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- 50代からのシンプルライフ - 50代からのシンプルライフ - ファッション
シンプルライフを考える上で、センスというものはとても大切だと思います。
もしかしたら、私の一生のテーマかもしれない・・・ともいえます。
若いころは、突っ走ってやたら服を買い、ブランドモノに憧れてきました。
でも振り返ってみると、私のおしゃれのセンスが磨かれたか?というと、それほどとは思えません。
一体、センスというものはどのように生まれ、育っていくのでしょうか。
育った環境でしょうか?
生まれた環境とセンスの関係は?
湘南に住んではいたものの、両親は関西の田舎の出身です。
東京風に暮らしてはいても、やはり生粋の東京育ちの人と比べると、ちょっとしたところが田舎くさいのです。
10代の頃、私は周りの普通の女の子がうらやましくてたまりませんでした。
学校の同級生の家に遊びに行くたびに、E美ちゃんのママはセンスがいいな~とか、N子ちゃんの家はインテリアが外国の家みたいだと、自分の家と比べては憧れていました。
そして、私立小学校に通っていたために一日の殆どが制服で、家に帰ると母が縫ったワンピースやスカートを着ていました。
セーターやブラウスもすべて手作りでTシャツなんていうものも着たことがありませんでした。
センスを磨くというよりも、母の趣味で私のファッションは成り立っていました。
公立の学校に転校してから、初めてデニムジーンズというものを知りました。
今までズボンといったら、母が作ったウールのズボンしか知らなかったのです。
「ジーンズをはきたい」・・・それが私の中学1年生の頃の夢でした。
同級生が私服でジーンズをはいているのを見て「なんて、垢ぬけているんだ」って陰ながら思っていました。
私から見て、そのころから垢ぬけていた同級生J子は、まるで大人→【50代のおしゃれなカジュアルファッションのコツ、脱・普段着のススメ】
センスの良い母にして、この子あり
高校生の頃の友人A子の家に行ったときは、かなりのカルチャーショックでした。
A子のママは聖心女子大出身、美智子皇后のご学友というバックグラウンドを持っていました。
家自体は閑静な住宅街にひっそりと建っているのですが、調度品や使っている食器は、家のものとは大違いでした。
毎日、高価な服ばかりを着ているわけではないし、ベーシックなものばかりなのに何を着ていても垢ぬけてみえる。
ちょっとしたブローチの使い方とかスカーフの巻き方なのでしょうが、センスが良いというのはこういう人のことを言うのだな、と高校生ながら思ったのを覚えています。
もちろん、センスが良いということは、単にお金持ちだから高価な服を買って試すことができるからということではないです。
立ち居振る舞いだけでなく、どんな家でどんな食器で、どんな生活をしているか・・・ということが、センスにつながっているのだな・・・と、まさにシンプルで上質な暮らし方のお手本でした。
A子と二人で街を歩いているのを妹が見かけ「A子ちゃんって、何を着てもセンスよく見えるね~」と感心していたことがあります。
ただのシャツにジーンズなのにA子が着ると、なんとなくその頃のアイドルのグラビア風の仕上がりに見えるのです。
ちょっと袖をロールアップしたりとか、ジーンズがちょっと長めだったとかというほんの少しの差なんでしょう。
ふだんから親の姿を見ながら育った、身についたセンスの良さというのでしょうか、「何を着ても様になる」ということが「センス」ということなのだなぁと、自分はその域になかなか達しないことが悲しかったです。
たくさんの服を買っても身につくものではないファッションセンス
美大に進学してみると、今までの自分がいかに悲惨な状況かと思い知りました。
時代は、アンノン族(雑誌ananとnonno)全盛、女子大生ブームでJJやCanCamが出てきたころです。
私もファッション雑誌を山ほど読んで必死に勉強しました。
会社に入ってからは、周囲の個性的な人たちに揉まれ、より一層買い物に血道をあげるようになりました。
ところが、服を買えば買うほど、ファッションセンスを磨くこととは遠ざかっていました。
流行の服をどんどん買っても、ちっともおしゃれに見えなかったのです。
それは、なぜでしょうか?
自分の頭で考えず、周りの意見や流行に流されてしまっていたからです。
おしゃれをするには、自分軸(どういう自分で在りたいか)が必要なのです。
自分軸を養うためには、服がたくさんあると着こなしを工夫することをしなくなってしまいます。
頭で考えなくなると、クリエイティブな発想をしなくなります。
そして、ファッションセンスを磨くことをしなくなってしまうのです。
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センスを磨くには、手間と時間を惜しまない心を持つ
さて、私も50代ともなれば、それなりに努力もしたし、なによりお金も遣いました。
ですが、身についたセンスというものは、思いのほか少なく、それが加齢とともにあらわになってきたような気がします。
中年を過ぎると、その人のセンスの多寡というものがあらわれてきます。
若い時は見えなかったものがはっきりと見えてきてしまうのです。
そして、その差が誰の目にもあらわになってきます。
その差の大きなものの一つが「手間と時間を惜しまない心を持つ」ということ。
例えば、持っているもう一足のタイツの方がこの靴に映える、とわかっていても着替えるのが面倒くさい。
バッグはもっと明るい色の方が似合うと確認したのに、ついいつもの黒い手提げのままで出かけてしまう。
若い時には手間をかけられたことが、この年になると「面倒くさい」の一言で片づけてしまうようになります。
中年になると誰でも顔が大きくなります。
だから、ヒールを履いて背を高くし、顔の比率を小さくする。
そんなことが頭ではわかっていても、できない。
つい「歩きやすいから」という理由で、フラットシューズやスニーカーを履いてしまうのです。
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もう、こうなると若い頃にあったしゃれっ気なんて微塵もありません。
当然、この手間と時間を惜しむ人間のセンスといったら・・・ですよね。
努力を重ねても、身につかない「センス」というもの
疲れるとわかっていても、ヒールの靴を履く。
自分のコーディネートがなんとなくしっくりこなかったら、一旦家に引き返す。
「ファッションが好き」であって、そんな努力を重ねても、なかなかセンスというものは身につかないところが曲者です。
「手間と時間を惜しまない心」は、センスというもののほんの入り口にしか過ぎないような気がします。
そして、センスというものをいまだ手にすることができていない自分が悲しい。
努力して、あれほど願ったのに・・・と思います。
ですから50代になっても、「手間と時間を惜しまない」おしゃれな人は限りなく尊敬し憧れます。
素敵な人のパンツに合わせたニットとストールの色のバランス。
さりげないアクセに手入れの行き届いた指先、艶のあるヘアスタイル・・・。
まったく、センスというものは恋愛にも似て、なかなか手に入れられない時こそ憧れます。
シンプルで上質な暮らしをするために必要なセンスというもの、これからも追及したい私の一生のテーマでもあるのです。